3人兄弟の末っ子として育ち、兄とは年齢も離れていたこともあって、かわいがられて育ちました。
小さい頃から、虫のような小さな生き物にも、人間と変わらない命の重さを感じていました。
生き物にいたずらする友達とはよくけんかしていました。
幼稚園から絵画教室、書道など芸術を学び続け、高校生のころには芸術大学を志すようになっていました。
高校時代は画塾に通い、塾が休みの日は美術室で絵を書いていました。夏休みなどは一日10時間以上デッサンし、画家になろうと思っていました。
絵を学ぶ仲間と、毎晩夜中まで研究塔に居残りして、絵を描いたり、いろんなことを語ったりしていました。
特に、先住民族の絵に興味を感じ、オーストラリア国立大学に交換留学し、アボリジニーの絵を研究するなど、絵を人生のテーマとして深めていくようになっていました。
しかし、ある時期に、人間の環境破壊によって生活を奪われていく野生動物のことが頭から離れなくなり、いても立ってもいられなくなった僕は、在学中から自然保護団体で働き始めました。
大学を卒業すると同時に自然保護団体に就職し、休みもほとんど無く、朝から終電まで自然保護活動に没頭しました。
しかし、仕事自体に情熱を感じることは、最後まで出来ませんでした。「しなければならない!」という想いが強かったのだと思います。
仕事の内容で、環境を破壊する企業、野生動物を殺処分する行政との意見が対立し論争することが辛く、当たり前の事ですが、相手を否定して接しても、何も変わらない、分かってくれない。という事を痛感しました。
一年働いて、僕は自然保護団体を辞めました。
何をすべきか全く分からず、「自分らしさを見つける」という旅を始めたのです。
興味がある場所に行き、ご縁のあった人にお世話になる。そんな直感を信じて体験する旅です。
旅を始めて3ヶ月が過ぎようとしていた頃、僕は熊野の修験道場の和尚さんと知り合い、山伏修行を始めました。
山を法螺貝を吹きながら歩き回り、滝に打たれ、瞑想し、お経を唱え、断食する。という古風な修行を行いました。
そんなある日、お寺に徒手医学を勉強している先生がやってきて、その先生が勉強しているオステオパシーという治療哲学を熱心に説明してくれました。
オステオパシーの治療の目的である「身体と心と魂の統合」
その先生が帰った後も、修行の中でその言葉は何度も僕の心に立ち上り、僕はワクワクドキドキしていました。
熊野の山々の中で、それは一つの人生の目的まで成長していったのです。
修行を終え、山を降り、徒手医学の勉強をするために日本中のいろんな団体の話を聴きに行きいました。
業界のいろんな話を聞き、行動していく中で、自分にとって正しい道が少しずつ示されていきました。アルバイトを始め、勉強会にも出席するようになり、尊敬できる先生を見つけ、修行をはじめ、まもなく医療系の専門学校に通い始めました。
修行先は、クラシカルオステオパシー協会会長の元、3年間、治療家とは何か、何を大切にすべきか、治療を仕事としてどう取り組むのか、心構えをしっかり叩き込まれました。
朝は7時から整骨院で修行をし、昼に学校に行き、学校が終われば飲食店で深夜までアルバイト。寝れる時間は一日3、4時間というハードなものでした。
休みになると医学系のセミナーに出席し、そのたびに今までとは違う世界がどんどん広がっていくのを感じました。志を共にする仲間も出来、オステオパシーを熱心に教えいただける師匠とも出会う事が出来、勉強できることに楽しさと感謝が増していきました。
いいことかは分かりませんが、稼いだお金は毎月全て勉強につぎ込んでいるので、ここ何年かは貯金が全くありません。
僕がどれほど、勉強しているかについては、セミナー受講履歴をご覧ください。
3間年の修行期間が過ぎ、柔道整復師の国家資格を取得しました。初めての就職先は、外反母趾専門整体院でした。外反母趾の治し方の専門知識を学び、多くの患者さんとかかわることができ、本当に感謝しております。
しかし、より自分の力を最大限に患者さんに還元したいとの強い想いが渦巻き、2017年3月にオステオパシー治療室*inipiで開業することにしました。
そんな僕ですが、もちろん今でも小さい頃や学生時代に感じていた、生き物たちへの想いは大切にしています。
僕のライフワークは施術を通して、ご縁のあった人を輝かせることです。
「自分らしくあれば命は輝く」誰かがこんなことを言いました。
施術を通して、今のあなたの身体を讃え、祝福し、励まし、あなたの身体が自分らしさを見つけ、周りを明るく照らせますように。という気持ちで施術を行っております。